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霞ヶ浦(かすみがうら)は、茨城県南東部に広がる湖で、日本第二位の面積を誇る。広義には西浦、北浦、常陸利根川、鰐川、横利根川の5つの水域を総称し、狭義には西浦のみを指す。琵琶湖に次ぐ規模を持ち、茨城県を代表する自然資源として、古くから地域の生活、産業、文化と深く結びついてきた。
霞ヶ浦は茨城県南東部に位置し、首都東京から約60キロメートルの距離にある。広義の霞ヶ浦の総面積は約220平方キロメートル、狭義の西浦だけでも172平方キロメートルに及ぶ。流域面積は2,157平方キロメートルで、茨城県全体の約3分の1を占める広大な水系である。
湖の最大の特徴は、その広大な面積に対して水深が極めて浅いことである。平均水深は約4メートル、最大水深でも約7メートルにすぎない。この浅さが、豊かな生態系を育む一方で、水質管理の難しさにもつながっている。
霞ヶ浦を構成する水域は以下の通りである。
西浦は霞ヶ浦の中心をなす最大の水域で、面積172平方キロメートル、湖岸延長138キロメートルに及ぶ。稲敷市浮島の和田ノ岬、稲敷郡美浦村の稲荷ノ鼻、稲敷市古渡の堂崎ノ鼻は、西浦に伸びてできた砂嘴である。
北浦は西浦の東側に位置し、面積36平方キロメートル、湖岸延長75キロメートルの水域である。潮来市の水原洲吠崎、鹿嶋市の爪木ノ鼻は北浦に伸びてできた砂嘴として知られる。
常陸利根川は河川法上の正式名称で、かつて北利根川、外浪逆浦、常陸川と呼ばれていた水域を含む。外浪逆浦は面積約6平方キロメートル、最大水深9メートルで、1893年に浪逆浦を堤防で南北に仕切った際の南側部分である。内浪逆浦は外浪逆浦の北にあったが、昭和初期の干拓事業で農地となり消滅し、現在は潮来市日の出地区の住宅地となっている。
霞ヶ浦への流入河川は56を数え、主要なものとして桜川、恋瀬川、巴川、小野川などがある。年間流下量は約14億立方メートル、貯留量は約8.5億立方メートルである。流域の一部は水郷筑波国定公園に指定され、湖沼水質保全特別措置法の指定湖沼となっている。
気候は東日本型に属し、冬には「筑波おろし」と呼ばれる北西の季節風が強く吹き、晴天の日が続いて降雨量が少ない。夏には南東の季節風が卓越して降水量が多くなる。年間平均気温は13度前後、年間平均降水量は1,281ミリメートルと、全国平均の1,564ミリメートルに比べると降水量の少ない地域である。
霞ヶ浦という名称は長い歴史の中で変遷してきた。古代には「流海(ながれうみ)」または「浪逆の海(なさかのうみ)」と呼ばれ、海水が逆流する様子から名付けられた。713年に編纂された『常陸国風土記』には「流海」の名で記録されている。
中世に入ると「霞の浦」として和歌に詠まれるようになり、鹿島灘の「外の海」に対して「内の海」とも呼ばれた。「霞ヶ浦」という名称が定着したのは江戸時代になってからで、霞がかかったように見える湖面の様子から、この美しい名称が生まれたとされる。
なお、正式な表記については「霞ケ浦」と「霞ヶ浦」の両方が用いられている。国土地理院発行の『標準地名集(自然地名)』では「ケ(大文字)」を用いており、地名としては「霞ケ浦」が正式表記となる。一般には国が「ヶ(小文字)」を、茨城県が「ケ(大文字)」を用いる傾向にある。
霞ヶ浦の形成は地球規模の気候変動と密接に関わっている。約12万年前の下末吉海進と呼ばれた時代、霞ヶ浦周辺は関東平野の多くと同様に古東京湾の海底であった。7万2千年前ごろの最終氷期の始まりとともに徐々に陸地化が進んだ。
3万年前まで鬼怒川は現在の桜川の流路を流れ、現在の西浦となる河谷を形成した。その後、男体山、那須岳、富士山などの火山活動期(関東ローム層の形成期)を経て、2万年前には陸地化とともにできた川筋によって鹿島、行方、稲敷、新治の各台地が分割され、現在の霞ヶ浦の地形の基礎が形作られた。
約6千年前の縄文時代には、温暖な気候により海水面が上昇し、銚子方面から海が内陸部に深く入り込んで広大な入江を形成した。これが「縄文海進」と呼ばれる現象である。霞ヶ浦はこの入江の一部として誕生し、当時の面積は現在の2~3倍にも及んだ。海水が容易に遡上する大きな湖であり、8世紀当時は利根川下流に広がっていた香取海の入り江のひとつとして「香澄流海」と呼ばれていた。
霞ヶ浦周辺には多数の貝塚が発見されており、当時が海であったことを物語っている。崎浜や川尻では約13~12万年前のカキの化石が密集している地層を見ることができる。その後、鬼怒川や小貝川が運んできた土砂が現在の西浦や北浦の湾口に堆積し、徐々に現代の姿に近づいていった。霞ヶ浦が現在の姿に近いものになったのは江戸時代中期のことである。
霞ヶ浦周辺には1万年以上前から人間が生活していたことが、ローム層から出土した旧石器によって明らかになっている。縄文時代の霞ヶ浦は豊かな恵みをもたらす海であり、周辺の台地から低地へ傾斜する地域には多数の貝塚が発見されている。
特に美浦村にある陸平(おかだいら)貝塚は全国でも有数の規模を誇る縄文時代の貝塚で、約7000年前から3500年前までの長期間にわたる貝層が残されている。出土する貝の種類は豊富で、縄文人の豊かな食生活を物語る。土浦市では鯨の骨も発見されており、当時の霞ヶ浦が外洋とつながっていたことを示している。
霞ヶ浦北岸の谷津田では5世紀初めには開墾が行われ、6世紀初頭にはすでに本格的な開田が行われていた。農耕が盛んになるにつれ、沿岸には大小の豪族が誕生し、霞ヶ浦周辺に数多くの古墳を残した。
石岡市にある舟塚山古墳は全長186メートル、前方部幅100メートル、後円部径90メートルと茨城県内最大の規模を誇る前方後円墳である。霞ヶ浦町(現かすみがうら市)には「太子のカロウド」と呼ばれる大陸的な装飾古墳も存在し、当時の豪族の強大な権力をうかがい知ることができる。行方市の三昧塚古墳も巨大前方後円墳として知られる。
645年の大化の改新以降、常陸国が成立し、649年には常陸国内に香島郡(神郡)が置かれた。現在の鹿島神宮の起源となる香島の天の大神が祀られ、霞ヶ浦は古代から信仰と文化の中心地として重要な役割を果たした。
中世には常陸大掾氏が常陸国府の大掾職を世襲し、職名を名字として勢力を拡大していった。南北朝時代には北畠親房が南朝方立て直しのため数年にわたり霞ヶ浦周辺で激しい戦いを繰り広げた。親房は東条荘神宮寺城や阿波崎城を転戦しながら小田城において『神皇正統記』を著している。
この時代、霞ヶ浦には「海夫(かいふ)」と呼ばれる特殊な身分の人々が存在した。14世紀頃の『海夫注文』(1368~1375年)によれば、彼らは香取社の支配下にあって漁労と水運の特権を認められていた。
13世紀には霞ヶ浦沿岸を通って鎌倉と奥州を結ぶ鎌倉街道や、高浜から出船する水路が開発され、流通が活発になった。戦国時代、霞ヶ浦周辺では守護の佐竹氏、関東管領の上杉氏、古河公方の足利氏、後北条氏が覇権を争ったが、最終的に北方の佐竹氏が勢力を南下させた。1591年、豊臣秀吉の権威を背景に佐竹義宣が霞ヶ浦周辺の地元領主(南方三十三館)を誘殺し、佐竹氏が周辺域を掌握した。
江戸時代に入ると、霞ヶ浦の歴史は劇的な転換を迎える。徳川幕府による利根川東遷事業が、霞ヶ浦の性質を根本的に変えることになった。
かつて利根川は江戸湾(東京湾)に注いでいたが、江戸を水害から守り、同時に新田開発を行うため、代々の徳川将軍は約60年にわたり流路を東側に移動させる大規模な河川改修を実施した。1594年から始まったこの事業は1654年に完成し、利根川は現在のように千葉県銚子沖へ注ぐようになった。
この東遷事業により利根川の水が霞ヶ浦方面にも流れ出すようになり、霞ヶ浦南東部に運ばれる土砂の量が増え、17世紀中頃には海水との連絡が悪くなって霞ヶ浦は徐々に淡水化していった。同時に、利根川を遡上し江戸川を経由して江戸に至るという関東の水運の大動脈が開通することとなった。
霞ヶ浦は江戸時代の重要な交通路となり、古くから舟運が物資輸送の根幹であった。利根川東遷により霞ヶ浦と江戸を結ぶ航路が開かれると、東北地方から江戸へ向けた大量輸送の経路として「那珂湊内海江戸まわり」と呼ばれるコースが利用された。このコースは航海の危険は少なかったものの、途中で積み替えの手間がかかることから、次第に房総半島沖を通るコースなどに移り変わっていった。
1650年には『霞ヶ浦四十八津掟書』が定められ、漁具、漁法、漁期の違反者処罰法などが規定された。1728年頃には大徳網(大型定置網)が始まり、霞ヶ浦の漁業は本格的な発展期を迎えた。
しかし利根川東遷事業の影響は必ずしも良いものばかりではなかった。霞ヶ浦方面に流れ込む水量が増加したことで洪水の危険性も高まった。1783年の浅間山大噴火以降、洪水被害が甚大となり、1786年には利根川氾濫により土浦で大洪水が発生している。
明治時代に入ると、霞ヶ浦は近代化の波に洗われることとなった。1877年(明治10年)、深川扇橋と霞ヶ浦高浜(石岡市)河岸間に蒸気船が就航し、1883年(明治16年)には両国と鉾田間(北浦)にも航路が開設された。
蒸気船の就航により霞ヶ浦の水運は大きく発展した。明治後期には佐原~鉾田、佐原~土浦、銚子~高浜、銚子~土浦、土浦~鹿島、土浦~江戸崎などの定期航路が開かれた。利根川水系に参入した船会社は10社以上に及び、会社間の競争は激しく、狭い水路で出会うとわざと船を衝突させて船員同士が喧嘩を始め、やがて乗客を巻き込んだ大乱闘に至ったこともあったという。
1866年(慶応2年)には中館広之助が鰐川から鹿島灘への放水路、居切堀(堀割川)の工事に着手し1871年まで続けられた。この堀割川は霞ヶ浦の洪水を直接鹿島灘に放流する目的で開削されたが、鹿島灘の荒波のため海岸口が埋没し、当初の目的は果たせなかった。現在は水路として利用されている。
1880年(明治13年)には霞ヶ浦の漁業史に革命をもたらす発明がなされた。かすみがうら市(旧佐賀村)に生まれた折本良平が帆引網漁法を発明したのである。この漁法は凧の原理を応用し、巨大な帆を張り、風の力を受けて船を横流しさせることで水中の網を引くというもので、シラウオやワカサギの漁に使用された。従来の漁法では2~3隻の船を使い20人以上の人手が必要であったが、折本は改良を重ね、最終的には2人で操業できるようにした。帆引き船の帆の高さは9メートル、幅は16メートルにも及び、霞ヶ浦に白帆が何隻も浮かぶ光景は霞ヶ浦を代表する風景となった。
しかし水上交通は陸上交通の発達により徐々に衰退していく。1896年(明治29年)には田端と土浦間を2時間40分で結ぶ常磐線が開通し、1898年(明治31年)には本所と佐原間に総武線が開通した。これにより霞ヶ浦周辺から東京への所要時間は一挙に短縮され、バスやトラックなどの陸上交通も発達したことで長距離航路は廃止され、水上交通は次第に衰えていった。
明治政府は当初、利根川の治水方針を明確にできずにいたが、足尾鉱毒事件が発生し田中正造らの活動によってその被害が明らかにされるにつれ、霞ヶ浦や銚子方面を利根川主流とする方針が明確になった。利根川主流を銚子方面に定め、より多くの水を流下させる方針が固まった。
この方針は霞ヶ浦の治水対策を強化していく事情につながった。明治後期に始まった利根川水系の大規模河川改修は、横利根川に横利根閘門を建設するなどして利根川と霞ヶ浦水系を分離するもので、利根川との合流点を現在の常陸川水門がある地点まで引き下げて事業は1930年に竣工した。
昭和時代に入ると、霞ヶ浦は度重なる水害に見舞われた。1938年(昭和13年)6月、霞ヶ浦の近代治水史上最大の大洪水が発生した。この洪水は霞ヶ浦から利根川に合流する水路の排水能力不足が原因となり、霞ヶ浦は1か月以上も湛水する結果となった。土浦市では市街の大半が浸水し、十数日も濁流が停滞したために赤痢等の疫病も発生した。1941年(昭和16年)7月にも再び大洪水が発生し、霞ヶ浦周辺に大きな被害を与えた。
これらの二度にわたる大洪水は、1939年に起工された利根川増補計画の教訓となり、常陸利根川と利根川の合流点に逆水門を建設し、新たに西浦から外浪逆浦を経由して鹿島灘に直接排水する「霞ヶ浦放水路」が計画された。しかしこの計画は太平洋戦争が勃発したためほとんど工事が行われないまま戦後へと引き継がれた。
昭和期の霞ヶ浦には軍事施設も設置された。1922年(大正11年)に霞ヶ浦航空隊が設立され、霞ヶ浦湖畔は海軍航空隊の訓練基地となった。1931年(昭和6年)にはリンドバーグが霞ヶ浦へ訪問飛行を行っている。土浦海軍航空隊は予科練教育の中心地として多くの練習生が訓練した場所であり、現在は予科練平和記念館がその歴史を伝えている。元鹿島海軍航空隊の湖岸施設は、歴史的に重要な土木構造物として2009年に土木学会選奨土木遺産に認定された。
戦後の霞ヶ浦は高度経済成長期に大きな変貌を遂げた。1948年(昭和23年)には北利根川の河道浚渫に着手し、河道の明瞭化が進められた。しかしこれにより霞ヶ浦の塩分が上昇し、1955年(昭和30年)には鹿行地域(神栖、鹿島、潮来など)に塩害が発生した。
この塩害問題と首都圏の水需要増大に対応するため、1968年(昭和43年)から治水と利水の両方の目的を持った霞ヶ浦開発事業が進められた。1963年(昭和38年)5月には常陸川水門が完成し、塩水の遡上を防ぐことが可能となった。1965年(昭和40年)3月には霞ヶ浦が一級河川に指定され、常陸利根川の改修、湖岸堤建設、常陸川水門と閘門部改修などが実施された。
1991年(平成3年)には戦後最高水位を記録し、侵食や内水被害が発生した。これを受けて過去の洪水による浸水や高波浪による侵食被害から守るため、堤防整備と波浪対策が継続して進められている。
霞ヶ浦は上水道や農業用水、工業用水の水源として使われている。水利権は茨城県(毎秒37.23立方メートル)、千葉県(毎秒4.19立方メートル)、東京都(毎秒1.50立方メートル)におよび、合計で毎秒42.92立方メートルとなっている。
霞ヶ浦流域の農業は下流一帯の低地における稲作と、台地での畑作などに分けることができる。下流一帯の水田は土地改良が進み、関東でも有数の稲作の産地として知られている。霞ヶ浦では1920年代から食糧増産のために湖面の干拓が進められ、干拓された土地は1970年までに約2660ヘクタールに達している。
近年では湖岸沿いの低地を中心にハス(レンコン)栽培が盛んになり、全国第一の生産量を誇っている。また流域では養豚も盛んで約40~50万頭の豚が飼育されている。かすみがうら市は年間を通しておだやかな気候のため、梨、ブドウなどの果樹類や、レンコンをはじめとする様々な野菜を栽培し、市内外へ出荷している。
霞ヶ浦は利根川東遷等の様々な事情によって海から淡水に変わっていった湖であるため、淡水魚から海魚まで豊かな水資源に恵まれ、古くから漁業が盛んに行われてきた。1860年代にはシラウオ、ワカサギの帆引き網漁が行われるようになり、漁獲量は増加した。
霞ヶ浦周辺での水産加工の歴史は古く、江戸時代末期から製造が始まったと言われている。ワカサギ、シラウオ、エビ類、ハゼ類などの漁獲物は煮干しや佃煮といった伝統的な加工品の原料として利用され、当地域を代表する特産品となっている。霞ヶ浦の魚介類は煮干し、甘露煮、佃煮、焼き物などに加工されている。煮干の主なものはワカサギ、シラウオ、イサザアミ、エビで、佃煮はワカサギ、ハゼ、イサザアミ、フナが主である。焼き物はフナ(すずめ焼き)、ワカサギなどで、特に焼きワカサギは独特の風味で霞ヶ浦の特産品として珍重された。
霞ヶ浦北浦では産地市場が存在しないことから、水揚げされた漁獲物は漁業者が地元の水産加工業者に直接持ち込むという流通形態がとられてきた。しかし近年では漁業者自らによる自家加工や、鮮魚のまま消費地市場への出荷なども行われるようになり、流通形態の多様化が進んでいる。
また行方市商工会は北米原産のチャネルキャットフィッシュ(アメリカンキャットフィッシュ)を使った行方バーガー(なめパックン)というご当地グルメで街おこしをしている。
国立環境研究所の研究によれば、霞ヶ浦は1年当たり供給サービス463億円、調整サービス751億円、基盤サービス166億円、文化的サービス3億円と、多様な生態系サービスを提供していることが明らかになっている。世界の湖沼と河川の平均的な経済価値と比較しても、霞ヶ浦の生態系サービスの価値は約4倍高い結果となっている。
霞ヶ浦の水質は昭和30年代ごろまでは比較的きれいで、水泳を楽しむことができるほどであった。しかし昭和40年代後半から流域における人口増加や生活様式の多様化、産業活動の進展などに伴い、水質の汚濁が急速に進行した。
昭和50年代の霞ヶ浦は水質が最悪の状態に陥った。シジミや養殖コイの大量死が発生し、アオコの大発生により周辺に悪臭を放つ有様となった。霞ヶ浦の環境をここまで悪化させた原因は、農業と工業などの産業排水量の増加と、流域人口増加による生活排水量の増加であった。それらが適切に処理されず河川へ流されたことで、多量の窒素やリンが霞ヶ浦に流入し、プランクトンの大量発生につながった。その結果、湖水中の有機物濃度が上がる一方、酸素濃度は下がり、生物の生息に適さない状態となった。
この深刻な状況に対し、1966年(昭和41年)12月には「茨城県公害防止条例」が公布され(1967年7月施行)、水質保全への取り組みが本格化した。国や自治体は下水道や農業排水処理施設の整備、工場排水などの規制強化に取り組み、霞ヶ浦の水質は最悪の状態から改善した。
現在、霞ヶ浦では様々な水質浄化対策が実施されている。湖底には水質悪化に伴って富栄養化した底泥が堆積しており、その底泥に含まれる窒素やリンが湖水への溶出と沈降を繰り返している。そこで昭和50年度から底泥浚渫事業が実施され、約800万立方メートルの底泥浚渫を実施する計画で、平成21年度末までに約752万立方メートルの浚渫が完了した。浚渫された底泥は低地水田の嵩上げ用の盛り土として活用されている。
浚渫に使用される浚渫船「カスミザウルス」の浚渫装置には、作業時に底泥の拡散を防ぐとともに含泥率の向上を目的として回転バケット方式が採用されている。
またウエットランドと呼ばれる自然に近い状態で水質浄化を行う施設も整備されている。霞ヶ浦には多くの流入河川と600か所以上の排水樋管があり、これらから入ってくる有機物質や窒素とリンなどの栄養塩類が霞ヶ浦の水質を悪くしている原因の一つである。ウエットランドでは河川から霞ヶ浦に入ってくる水を一時的に貯め、沈殿ビットで水質悪化の原因となる物質を沈殿させて水質浄化を行っている。
夏季には富栄養化した湖のため大量のアオコが発生し、腐敗時に悪臭を放つなど周辺環境と景観を著しく悪化させる。このため環境保全対策として水面清掃船(アオコ採取船)により湖面に浮遊しているアオコの採取が継続して行われている。
さらに霞ヶ浦導水事業も進められている。この事業は川と川をトンネルで結び、水に余裕のある川から水を必要としている川へ水を送って相互に助け合うもので、きれいな水で希釈するとともに流れをよくして霞ヶ浦および桜川をきれいにすること、利根川および那珂川の渇水による被害を少なくし河川環境を保全すること、霞ヶ浦および那珂川において新たに水道用水と工業用水を開発することを目的としている。
茨城県霞ヶ浦水質保全条例も段階的に強化されており、2019年から霞ヶ浦流域の飲食店やコンビニなどすべての事業所が守るべきBODや窒素、リンなどの排水基準が定められている。2021年4月からは規制が強化され、改善命令や排水一時停止命令が発出され、命令に従わなかった場合は罰則が適用されるようになった。
しかし近年は水質改善があまり進まず、その指標であるCOD(化学的酸素要求量)も横ばい傾向にある。かつての泳げる霞ヶ浦に回復するのは依然として困難な状況が続いている。湖水は茶色がかり透明度も著しく低い状態となっており、場所によっては浮遊物(ゴミなど)が打ち上げられている場所も少なくなく、清浄とはいえない状況である。
霞ヶ浦の湖岸沿いにはカサスゲ-ヨシ群落などの湿地植物群落やヨシ、マコモなどの抽水植物群落が広く分布しているほか、アサザ群落やヒシ群落などの浮葉植物も分布している。平成8年度から平成22年度に行われた植物調査では約350~450種の植物が確認されている。これらの水辺の植物は水鳥の営巣や魚の産卵場所など、多くの水辺の生物を育む母体となっている。
鳥類としては平成8年度以降の現場調査で約70~90種が確認されている。その中には越冬のため渡来するオオハクチョウやヒシクイ、夏に繁殖のために渡来するチュウサギやオオヨシゴイ、霞ヶ浦周辺を生息環境として1年を通じて確認されるオオタカ、ハクセキレイ、オオセッカ、コジュリンなどの貴重種も含まれている。冬には多くの渡り鳥が飛来し、霞ヶ浦は重要な野鳥の生息地となっている。
かつて霞ヶ浦は豊かな漁場として知られ、ワカサギ、シラウオ、ハゼ類(ゴロ)、テナガエビなどの漁獲が盛んであった。しかし著しい水質汚染と外来種の侵入により、近年の漁獲量は総じて減少している。かつては普通に見られ食卓を賑わしていたキンブナが姿を消すのではないかと懸念されている。スズキやウナギのように海との交流の産物だった魚も往年の面影はない。
特に深刻なのがタナゴ類の問題である。産卵母貝となる二枚貝類の減少などにより、タナゴ、アカヒレタビラ、ヤリタナゴはいずれも減少が著しく、かつて多産したゼニタナゴは霞ヶ浦水系では絶滅したものと考えられている。霞ヶ浦の淡水魚類相の風物詩でもあるタナゴ類は、今や外来種であるタイリクバラタナゴ、オオタナゴに席巻された感が強い。特に2000年頃から姿が目立ち始めたオオタナゴは近年タナゴ類の優占種ともいえる状況にまで異常繁殖し、北浦と西浦の全水域で定着している。
平均水深4メートルと浅く、ワカサギ、コイ、ハゼの他、最近では外来魚のブルーギル、ブラックバスも生息しており、釣り場としても有名である。ただし外来種の影響で在来種の生態系が脅かされている状況にある。
霞ヶ浦は観光資源としても重要な役割を果たしている。湖畔には様々な観光施設が整備され、年間を通じて多くの観光客が訪れる。
霞ヶ浦総合公園は土浦市にある総合公園で、水生植物園の花蓮園では例年6月下旬から8月上旬にかけてハナハスが咲き誇る。園内からは霞ヶ浦を一望でき、散策やピクニックに最適なスポットとなっている。
霞ヶ浦ふれあいランドは行方市玉造にある体験型の施設で、虹の塔と呼ばれる展望台からは霞ヶ浦と周辺の景色を360度見渡すことができる。隣接する白帆の湯は霞ヶ浦を展望できる温泉施設で、足湯も利用可能である。
かすみがうら市水族館は霞ヶ浦に生息する淡水魚を中心に展示する水族館で、霞ヶ浦の生態系を学ぶことができる。霞ヶ浦環境科学センターは土浦市にある環境学習施設で、霞ヶ浦の環境問題について学ぶことができる。
予科練平和記念館は阿見町にあり、土浦海軍航空隊の予科練習生の歴史と阿見町の戦史の記録を後世に伝え、平和について考える施設となっている。
また霞ヶ浦では遊覧船による湖上観光も楽しめる。船上から眺める霞ヶ浦の景色は格別で、特に夕暮れ時には霞ヶ浦に沈んでいく美しい夕焼けを見ることができる。
釣りも人気のレジャーで、ワカサギ、ハゼ、コイ、ブラックバスなどを狙う釣り人が全国から訪れる。ただし外来種の駆除のため、ブルーギルやブラックバスなどの外来魚を釣った場合はリリースせず適切に処理することが求められている。
霞ヶ浦の夏から秋にかけての風物詩として受け継がれているのが観光帆引き船である。もともとは観光用ではなく、1880年(明治13年)にかすみがうら市(旧佐賀村)に生まれた折本良平氏によって考案された帆引き船を使った網漁法である。凧の原理を応用し、巨大な帆を張り、風の力を受けて船を横流しすることで水中の網を引く漁法で、シラウオやワカサギの漁に使われた。
帆引き船の帆の高さは9メートル、幅は16メートルにも及ぶ。風に対し舟を横向きにして網を下ろし、船が風に流され始めたら網とのバランスを取りながら徐々に帆を上げていく。この微妙なバランスは帆の張り具合で調整していく。風が強すぎては転覆の危険があり、風がなくては身動きができないといったような、霞ヶ浦の自然の摂理を利用して行う世界唯一の漁法である。
漁法としては昭和40年代前半にトロール船へと変わっていったが、霞ヶ浦漁業の歴史を知る上で極めて重要な文化遺産であることから、昭和46年に観光帆引き船として復活した。2018年には「霞ヶ浦の帆引き網漁の技術」が国選択無形民俗文化財に選定された。
現在の観光帆引き船は湖上で帆を広げた帆引き船を随伴船に乗り見学し、写真撮影をすることができる。風を受けて大きくふくらんだ真っ白な帆の時代を超越する機能美と、空と湖面の青色とのコントラストの美しさは思わず息を飲むほどである。
観光帆引き船は霞ヶ浦に面する土浦市、かすみがうら市、行方市の3市がそれぞれ操業している。操業する期間や出航する時間、料金等が異なる。かすみがうら市では7月下旬から11月下旬までの毎週日曜日(一部休航あり)に操業しており、一般2000円、小中学生1000円、未就学児無料で乗船できる(2025年時点)。
帆引き船を活かした個性的で魅力あるまちづくりを進めるため、かすみがうら市は平成16年8月16日に「帆引き船発祥のまち宣言」を行った。かすみがうら市水族館前には帆引き船発祥のまちを宣言した記念碑が設置されている。
霞ヶ浦に浮かぶ真っ白い帆を広げた帆引き船は、21世紀に残す日本の風景遺産100選や地域活性化貢献表彰に選ばれており、茨城を代表する風景の一つとなっている。
つくば霞ヶ浦りんりんロードは、旧筑波鉄道の廃線敷と霞ヶ浦を周回する湖岸道路を合わせた全長約180キロメートルのサイクリングコースである。2016年11月25日に開通式が行われ、2019年11月7日には国土交通省により第1次ナショナルサイクルルートに指定された。ビワイチ(琵琶湖一周)、しまなみ海道サイクリングロードとともに、日本を代表し世界に誇りうるサイクリングロードとして認められている。
本コースでは水郷筑波国定公園に指定されている霞ヶ浦などの水郷地域や、筑波山地域などの豊かな自然や風景、鹿島神宮に代表される歴史的文化的資産など様々な地域の魅力を楽しむことができる。初心者でも安心して走行できる起伏の少ないコースから、上級者向けの筑波山ヒルクライムまで、幅広い層に向けた多彩なコースが設定されている。
霞ヶ浦一周コース(通称「かすいち」)は約125キロメートルで、起伏はほとんどなく初心者から上級者まで幅広いサイクリストが楽しめる。コースの大部分が湖岸のサイクリングロードで抜群に走りやすい。霞ヶ浦一周ショートコースは約90キロメートルで、より短時間で霞ヶ浦を楽しむことができる。
霞ヶ浦を構成する西浦、北浦、外浪逆浦の3つ全てを巡る、いわば「真のかすいち」といえるコースもある。距離は約160キロメートルになり、それなりの脚力と時間を要するが、完走の達成感はとても大きい。夕暮れ時には霞ヶ浦に沈んでいく美しい夕焼けも見られる。
茨城県とつくば霞ヶ浦りんりんロード沿線9市町の連携により、本ロード沿線12か所の施設からどこでも自転車の貸出と返却が可能である。サイクリングでよく利用されるルートには矢羽根型路面表示が導入され、サイクリストに自転車の通行位置をわかりやすく示すとともに、車のドライバーに注意喚起することで自転車通行の安全性と快適性の向上を図っている。
りんりんスクエア土浦は土浦駅に隣接するサイクリングの拠点施設で、レンタサイクル、更衣室、シャワー室、休憩スペースなどが整備されている。また霞ヶ浦方面のりんりんポート土浦は土浦港に隣接したサイクリングの拠点で、約100台の無料駐車場を設置しているため、ここに車を停めて霞ヶ浦周辺のサイクリングを楽しむ人も多い。
かすみがうら市交流センターは霞ヶ浦湖岸に面した施設で、1階にはレンタサイクル、地元特産品を扱うマルシェ、2階には霞ヶ浦の幸を使ったメニューを提供するレストランがある。15分200円で利用できるシャワー室も完備している。
沿線には様々な観光スポット、グルメスポット、休憩所が整備されており、サイクリングを楽しみながら地域の魅力を発見することができる。電車なら東京駅から約50分、車でも都心から約1時間でアクセスできるため、首都圏からの日帰りサイクリングにも最適である。
霞ヶ浦へのアクセスは比較的容易である。首都東京から約60キロメートルの距離にあり、様々な交通手段で訪れることができる。
鉄道を利用する場合、JR常磐線の土浦駅が霞ヶ浦観光の玄関口となる。東京駅から土浦駅までは特急で約50分、普通列車で約1時間20分である。土浦駅からは霞ヶ浦総合公園やりんりんスクエア土浦などへアクセスできる。
自動車を利用する場合、常磐自動車道の土浦北インターチェンジ、千代田石岡インターチェンジ、桜土浦インターチェンジなどが最寄りとなる。東京都心からは約1時間でアクセス可能である。東関東自動車道の潮来インターチェンジからもアクセスできる。
霞ヶ浦周辺には無料駐車場を備えた施設が多く、車でのアクセスも便利である。りんりんポート土浦、霞ヶ浦総合公園、霞ヶ浦ふれあいランド、かすみがうら市交流センターなどに駐車場が整備されている。
路線バスも運行されているが、本数が限られているため、事前に時刻表を確認することをおすすめする。観光には レンタサイクルやレンタカーの利用が便利である。
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