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栄達を捨てた男が、辿り着いた「静かな誇り」

冬の陽が短くなり、仕事を終えて窓の外を見やると、すでに街は宵の気配に包まれている。そんな季節を迎える頃、あなたは自分のキャリアについて、ふと立ち止まって考えることはないでしょうか。

「成功」とは何か。「前進」とは、常に上へ上へと登ることだけを意味するのか——。

『スピノザの診察室』/夏川草介

主人公・雄町哲郎は、かつて大学病院で将来を嘱望された内視鏡のスペシャリスト。だが彼は最愛の妹を喪い、残された甥を育てるために京都の地域病院へと身を転じる。三十代後半、普通ならキャリアの上り坂。しかし彼が選んだのは華やかな舞台から降りること。町の人々の日常に寄り添う、穏やかな診察室。

この選択をあなたはどう受け止めるだろうか。

敗北、と見る者もいるかもしれない。だが物語を追ううちに読者は気づくはずだ。彼が手にしたものの尊さに。治らない病を抱えた人々にとって、「奇跡」よりも大切なものがあること。誰かの最期に希望の灯りをともすこと。それは、権力闘争や劇的な救命劇とは異なる、もっとシンプルで、もっと本質的な医師の姿。

作品のタイトルに冠された「スピノザ」——17世紀の哲学者が求めたものは、究極の幸福への思索だった。病が治らなくとも人は幸せに過ごすことができる。そんな哲学が、診察室という現場で静かに息づいている。

著者の夏川草介は現役の医師でもある。彼が二十年の医師経験を経て綴ったこの作品には、奇跡も陰謀も絶叫もない。けれど、その代わりに描かれるのは、勇気と誇りと優しさ、そして希望を忘れない人々の姿だ。

人生の中盤を過ぎた頃、私たちはしばしば「これでよかったのか」と自問する。だが、もしかすると大切なのは「どこまで登ったか」ではなく、「どう在るか」なのかもしれない。

茨城の冬は底冷えがする。そんな季節、温かな珈琲を淹れて、この一冊を開いてみてはどうだろう。
頁を繰るうちに、あなたの胸に灯る、何か——それは、静かな誇りと呼べるものかもしれない。

『スピノザの診察室』夏川草介 著(水鈴社)/1870円(税込)

この記事の著者

男の感性に火をつける、ライフスタイルWEBマガジン「GENTS-ジェンツ-」運営。
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