記事を探す
運営・お問い合わせ

四十も半ばを過ぎると、世の中のたいていの「正論」には、どこか嘘くささを感じるようになる。
そんなことはないでしょうか。
若い頃は疑わなかった善悪の境界線が経験を重ねるたび曖昧になっていく。会議室で語られる大義と現場で直面する矛盾。誰かを守ることが別の誰かを傷つけることになる──そんなせめぎ合いを私たちは幾度となく目の当たりにしてきました。
夕木春央の『方舟』は、そうした「正解など最初からない」問いを、極限まで研ぎ澄ませた一冊です。
山奥の地下建築に閉じ込められた九人。迫りくる水没のタイムリミット。そして突如起こる殺人。──「誰か一人を犠牲にすれば、残りの全員が助かる」。この残酷な選択肢を前に人は何を思うのか。本書が突きつけるのは、ミステリーの謎解きの快楽だけではありません。むしろ、その奥にある、もっと深い暗がりです。
「犯人が生贄になればいい」。誰もがそう考える。理屈としては至極まっとう。けれど、その「まっとう」が恐ろしく冷たい響きを帯びていくのを、読者である私たちは静かに見つめることになります。
この小説の醍醐味は、単純な謎解きの構造を超えたところにあります。閉ざされた空間で繰り広げられるのは、人間の本性のせめぎ合い。正義感と保身、理性と感情、信頼と疑念。それらが複雑に絡み合い、誰もが「正しくありたい」と願いながら、誰もが完全には正しくあれない──その機微こそが本書の本質でしょう。
そして何より、夕木春央が仕掛けた「真相」の衝撃。それは、読み終えた者の倫理観そのものを揺さぶります。ページを閉じた後も、あなたの中で問いは消えない。むしろ、始まるのです。「自分ならどうしただろうか」と。
若い頃なら、迷わず答えを出せたかもしれません。けれど今は違う。答えを急がず、その問いの重さを、じっくりと味わう余裕がある。それこそが、大人の読書の贅沢ではないでしょうか。
寒さが増す夜、一杯のウイスキーとともに。
あるいは、週末の静謐な午後、誰にも邪魔されない書斎で。
『方舟』は、あなたの傍らに置かれることを待っています。
効率や生産性からは遠く離れた、思考の深淵へと誘う一冊として。
正解のない問いを抱きしめる。
それは時に苦しい。けれど、その苦しみこそが、私たちを人間たらしめるのだと、この小説は静かに教えてくれます。
さあ、方舟に乗り込む覚悟はありますか。
『方舟』夕木春央 著(講談社)/913円(税込)
※週刊文春ミステリーベスト10 2022年第1位、MRC大賞2022第1位受賞作
男の感性に火をつける、ライフスタイルWEBマガジン「GENTS-ジェンツ-」運営。
40代を中心とした大人世代に向けて、茨城県南エリアの情報を本当に良いと感じたものだけを厳選して紹介しています。