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桜町(さくらまち)は茨城県土浦市に位置する町名で、土浦駅西口から徒歩圏内にある市街地の一角である。かつて霞ヶ浦から続く湿地帯だったこの地域は、大正時代に海軍航空隊の開隊に伴って造成され、料亭や飲食店が集まる歓楽街として発展した。
明治時代の花街をルーツに持ち、戦後は北関東最大規模の風俗街として知られるようになった一方で、ビジネスホテルや商業施設も立地する多面的な性格を持つ地域である。湿地から新市街地へ、軍都の歓楽街から現代の繁華街へと、時代とともに大きな変貌を遂げてきた。
桜町は茨城県土浦市の町名で、現行行政地名は桜町一丁目から桜町四丁目まである。土浦市街地の一角を構成する地域の一つで、土浦市のほぼ中央部に位置し、町内はほぼ平坦な地形となっている。JR常磐線土浦駅から徒歩5分圏内という近さにあり、ビジネスホテル、旅館、マンション、医療機関や商店のほか、大手企業の支店も立地している。
北側は大手町、中央一丁目、川口一丁目、大和町と接し、東側は有明町、南側は桜川を挟んで富士崎一丁目、下高津一丁目、二丁目、西側は大町と隣接している。郵便番号は300-0037である。
土浦市は土浦城の城下町として発展し、江戸時代には茨城県南地域の中心都市としての基礎が固まった。しかし、現在の桜町に相当する区域は、明治時代まで霞ヶ浦から続く湿地帯であった。
1926年(大正15年)に新市街地として造成され、霞ヶ浦海軍航空隊向けに料亭、料理屋、飲食店、カフェが集められた。霞ヶ浦海軍航空隊は1922年(大正11年)に大日本帝国海軍で3番目に設立され、航空隊要員の操縦教育を担当した航空部隊である。これらの飲食店が1か所に集められたのは、海軍の風紀の取り締まりのためであった。
開発の中心に立ったのは、霞ヶ浦岸の蓮河原地区の耕地整理組合長を務めた久松五右衛門であり、海軍航空隊開隊に合わせて時の土浦町長と共に耕地整理と並行して新市街開発に乗り出した。土浦市史では久松五右衛門の功績について、土浦の発展史上忘れることができないと記している。また、駅から桜橋に至る八間道路が整備された。
桜町二丁目の風俗街の起源は明治時代の花街であり、中城天満宮境内で毎年3月に開かれていた駒市での馬の売却益を男性がここで散財したという。戦後、桜町二丁目は北関東最大の風俗街(ソープランド街)となった。
最寄り駅はJR常磐線土浦駅で、徒歩5分圏内にある。
桜町には複数の主要道路が通っている。国道125号は市街地の幹線道路で、桜川橋で富士崎と結ばれている。茨城県道24号土浦境線は、桜町一丁目の国道125号交点が起点である。
土浦ニューウェイ(通称土浦高架道)は、新交通システムとして計画されたが頓挫し、現在は一般道となっている。きらら通りは、風俗店や飲食店が集中している通りである。
桜町を通過する路線バスは、国道125号を走行し土浦駅と富士崎、市役所、市南部方面を結ぶ路線と、主要地方道土浦境線上を走行し土浦駅とイオンモール土浦、石下駅、下虫掛方面などを結ぶ路線に大別される。
桜町は歓楽街としての顔を持つ一方で、ビジネスホテルや商業施設も立地する多様な地域である。きらら通りを中心に、多くの飲食店や風俗店が集中している。
2020年(令和2年)11月、新型コロナウイルスの感染が拡大すると、桜町の接客を伴う飲食店でクラスターが発生した。売り上げが減少し、閉店を余儀なくされる店も現れた。また、2022年(令和4年)2月には、クラブで口論となった客が暴力団員らにリンチされ死亡する事件も起き、地域経済と治安の悪化が顕著となった。
2024年(令和6年)4月1日、茨城県暴力団排除条例が改正され、暴力団排除特別強化地域として桜町一丁目、桜町二丁目、桜町三丁目が指定された(市内では他の地区にも指定箇所がある)。地域内では特定営業者および暴力団員に対して禁止行為(みかじめ料の支払いや受取など)が定められ、違反者には罰金が課せられることとなった。
桜町は、霞ヶ浦に近い湿地帯から大正時代に造成された新市街地へ、そして戦前の海軍航空隊を相手にした歓楽街から、戦後の北関東最大規模の風俗街へと、時代とともに大きく変貌を遂げてきた地域である。近年は治安対策が強化される一方で、土浦駅に近い立地を活かした都市機能も併せ持つ、土浦市街地の重要な一角を形成している。
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