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偽りのなかに、本物の音色を見つける男

深海に棲むラブカという鮫をあなたはご存じだろうか。光の届かぬ暗闇で三年半もの長い時間をかけて命を宿す生き物。静かに、じっと、息をひそめて——。

仕事のために偽りの顔を被ったことはないでしょうか。
取引先に見せる笑顔、上司への建前、部下への配慮。大人として生きるとは、ある意味で「潜入調査」の連続かもしれない。

『ラブカは静かに弓を持つ』/安壇美緒

主人公の橘は、少年時代にある事件に遭遇して以来、深海の悪夢に苛まれながら生きてきた。そして今、彼は音楽著作権管理団体の職員として音楽教室への潜入調査を命じられる。身分を偽り生徒としてチェロ講師のもとに通う日々。目的は著作権法の演奏権を侵害している証拠をつかむこと。

武器はチェロ。潜入先は音楽教室。

この設定だけで、あなたは気づくはずだ。これが単なるスパイ小説ではないことを。派手な銃撃戦も、華麗なアクションもない。あるのは、静かなチェロの音色と偽りの関係の中で揺れ動く心。

橘が抱えるジレンマは、多くの大人が日常で感じるものと重なる。「正しさ」とは何か。「任務」と「誠実さ」が相反する時、人はどう生きるべきか。信頼を装いながら、証拠を掴む。その行為の後ろめたさ。

だが、物語が描くのは単純な善悪ではない。師と仲間との出会いが、奏でる歓びが、橘の凍っていた心を溶かしていく。偽りで始まった関係の中に、いつしか本物の感情が芽生えていく。少年時代に封じ込めたチェロの音色が、再び彼の指先から響き始める。

タイトルにある「ラブカ」——それは深海に棲む鮫であり、同時に潜入捜査官(スパイ)を意味する言葉でもある。妊娠期間が三年半という特徴を持つ深海ザメの一種で、滞在先で長期間息をひそめて暮らすスパイのイメージに合っている。

四十を過ぎ、五十に近づく頃。私たちもまた、深海のラブカのように生きているのかもしれない。本音を隠し、仮面を被り、静かに息をひそめて。けれど——その暗闇の中でも、本物の音色を奏でることはできる。凍っていた心が、ふと溶け出す瞬間はある。

冬の深夜、静寂に包まれた書斎でこの一冊を開いてみてはどうだろう。
誰もが眠りについた時間。偽りと本音の狭間で揺れる橘の姿は、あなた自身の鏡かもしれない。頁を繰る音だけが響く空間で、ふと気づく。凍っていたのは、橘だけではなかったのだと。

この記事の著者

男の感性に火をつける、ライフスタイルWEBマガジン「GENTS-ジェンツ-」運営。
40代を中心とした大人世代に向けて、茨城県南エリアの情報を本当に良いと感じたものだけを厳選して紹介しています。